読書日記

#2210 敵はいるのに、殴る場所がない──村田沙耶香『世界99』

こんにちは、すみです!


上下巻、読み終えました。
分厚い。とにかく分厚い。でも途中で他の本を挟んだら戻ってこられない気がして、一気に読みました。読み終えたあと、しばらく現実の見え方が変でした。

一番刺さったところ

空子がピョコルンになる場面です。
比喩じゃなくて、身体を解体されて、別の生き物に作り変えられる。名前も変わる。「適応」とか「変わる」とかいう言葉が生ぬるく感じるレベルの、文字通りの作り変えでした。
不思議なのは、それが空子自身には救いのように見えたことです。読んでいる側としては、じゃあ人として本当に救いだったのか、と考える余地がずっと残る。
登場人物を並べると、選択肢は三つありました。
• 人間のままでいた白藤さん
• 記憶を調整された波
• ピョコルンになった空子
この三人のうち、誰が正解だったのか。答えは書かれていません。

無理なく、自分らしく

自分はどれに近いんだろう、と考えてみて、しばらく詰まりました。
私は「無理なく自分らしく」生きたいと思っています。でも三択のどれにも当てはまらない。読み落としかと思ったんですが、たぶんそうじゃなくて、「無理なく」と「自分らしく」が実は別々の願いなんですよね。
白藤さんは「自分らしく」を守って、無理のほうを引き受けた人。波は「無理なく」を得るために、自分の記憶を差し出した人。空子は無理なく自分らしくいられる状態にたどり着いたけど、その「自分」が別の生き物になっていた。
三人とも、片方は満たしている。両方そろっている人が一人もいない。
なぜ両立しないのか。たぶん「自分らしさ」って、周りと違うところにしか現れないからだと思います。環境と完全に一致していたら、それは自分らしさとして観測されない。つまり自分らしさは、環境との差分としてしか存在できない。差分があれば、必ず摩擦が生まれる。「無理なく」はその摩擦がゼロの状態のことなので、語義のレベルで最初からぶつかっている。
摩擦を消す方法は、原理的に三つしかありません。自分を変えるか、環境を変えるか、摩擦に耐えるか。
波と空子は一つ目、白藤さんは三つ目を選んだ。
この小説が意地悪なのは、二つ目——環境を変える——がほぼ潰されている世界を舞台にしていることだと思います。だから残った二択が、どちらも自分を差し出す話にしかならない。

なぜ環境を変えられないのか

敵がいないからではありません。敵はいます。システム化そのものです。
問題は、それが交渉できない形をしていることです。人間の敵なら説得も打倒もできる。でもシステムは、相手がいないまま作動し続ける。抵抗しても手ごたえが返ってこない。
刊行記念の対談を読んで腑に落ちたんですが、この作品には法も議会も選挙による意思決定もほとんど描かれないそうです。統治の仕組みが描かれないまま、いつの間にか世界が変わっていく。作者自身も、政治や差別の構造に無関心な人ではなく、そもそも気づいてすらいない層を描きたかった、と話しています。
交渉相手が空席なのは、偶然じゃない。設計です。

罪滅ぼしと、再演

空子がピョコルンになるのは、ある意味で昔の自分への罪滅ぼしのようにも見えました。かつて母親をこき使っていた自分が、最後はこき使われる側に回る。呼応し続けるのに疲れて、そっち側へ降りていく。
でも、作中はそれを「報い」としては描かない。淡々と流していきます。
ここが怖いところで、母親と空子が入れ替わっただけで、こき使う側とこき使われる側という構造そのものは一ミリも動いていない。空子が償ったことで救われたのは空子だけです。母親が受けた扱いがなかったことになるわけでもないし、次に誰かが同じ位置に立つ。
つまり敵は、個人でも制度でもなく、人が流れ込んでいく役割の型なんだと思います。だから執行者に顔がない。そのときたまたま型に入っている誰かが、職務としてやっているだけだから。
作中には、ピョコルンをさらに助ける「母ルン」がいればいい、という発想まで出てきます。型の下に、さらに型を作る。ここまで来ると、この小説の構造がはっきり見えます。
敵はいるのに、殴る場所がない。型は人を替えながら回り続ける。
さっきの三択が答えの出ない三択だったのも、そもそも三人が同じ型の上に並んでいたからでした。

実験報告としての小説

作者インタビューを読んで、いろいろ納得しました。
村田沙耶香は、実験室の水槽に自分の体験や人間のパターンを投げ込んで、外側から化学反応を冷静に書き留めるような感覚で書いている、と話しています。オーウェルやアトウッドのディストピアが「こうならないために今どうすべきか」を書いているのに対して、自分はそうではない、と。明確なメッセージがあって書かれたものではなく、漠然とした実験結果の報告だ、とまで言っています。
だからこの小説には教訓が置けないんですね。「こうすればよかった」が存在しない。倫理の物語ではなく、構造の物語だからです。
ただ、完全に外側から眺めているわけでもないらしくて。毎月書いていると、その時々の自分の考えや体験も無意識に水槽に投げ込まれて実験材料になってしまう。自分がばらばらに分かれて、実験台にもなれば観察者にもなる、という分裂だ、と。
冷たい観察記録のはずなのに、読むとこっちの身体が痛む理由は、たぶんこれです。書いている本人も、水槽に半分入っている。

仕事の話を少しだけ

私は仕事で、組織の文化を変えようとしています。
やっていることを構造で言えば、型に入っている人を励ますことじゃなくて、型そのものを組み替えようとすることです。つまり摩擦の消し方の二つ目、この小説では潰されていた選択肢を、現実のほうで選んでいる。
だからこの本の絶望と、自分の実務が正面からぶつかりました。
小説の中では環境を変えられなかった。でも現実では、ゼロではない。そう思いたいから仕事をしているんだと思います。読み終えて一番残ったのは、そこでした。
もっとも、そう考えている私自身も、たぶんもう水槽の中にいるんですけどね。


今回の内容がお役に立てれば幸いです。

では、またあした!

2020.1.4から自己変革を開始した普通のサラリーマン|システムエンジニア| 2022.11.4から10年後の2032.11.4までに経営者を目指すことを決意|その模様を毎朝4時にこのブログにて投稿しています|毎日の習慣→瞑想, 運動, 読書, 発信|SF 達成欲, 未来志向, 包含, 最上志向, 信念

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